「身の回り」と学問の関係【解説追加】
2016.03.22
本当の学問とは、実験することでも、本や論文を読んで分析することでも、まして本や論文を書くことでもない。それは、我が身の生を考えるを考えること。そして、我が身は単独に存在することでなく、外(環境)があって内(自己)があるので、結果、外も内もないわけである。
学ぶこと、すなわち“学問”により、ある事実について異なる視点での受けとめ方を知る。そうするとその事実がまた違ったように思えてくる。これが「理解を深めること」であり、同じ事実でも二重三重の「想い」をもって接するようになる。これが味わいや憂いといった「ものの哀れ」を感じることにつながり自ずから感謝の念が湧く。結果、この世で一番貴重な「時間」というもの、すなわち、限られた自分の生をより意義あるものにできる・・・ すなわち、学ぶことは生きること。生きることそのもの。今こういった考え方が失われつつあり、制度化した社会の中で有り体に言うと学ぶことは「点数をとるためのもの」すなわち「食っていくためのもの」になってしまっている。学問の意味と意義を問い直す価値はこのあたりにある。
多分野の受講が直ちに教養獲得とはならない。様々な個別知が分散的に存在する知識空間の間(ま)にこそ知性は存在し、それは個別値の統合、融合を求めてこそ身体化されうる。結局のところ、教養とは知性を求める構えに他ならない。そもそも参照軸としての自己がなければ、個別知との距離感も測れず、ただただ「おもしろいか、おもしろくないか」、「役に立ったか、役に立たなかったか」といった表層的感覚でしか承認されないのである(これではテレビ番組のザッピングとかわらない)。大学に入学して様々な講義を受講するにあたって、もっとも大事なのは知に対する“あるべき構え”であり、その構えをえるために、思想的基盤を強化するための取り組みを行っている。
参考ULR➡ https://sites.google.com/site/miyanonaoki20170/5-opinion