こんにちは、エコ~るど京大・白井亜美と申します。今回、このSDGsインタビューのテーマは「身近な多様性」です。幸か不幸か私たちは本当に一部しか世界を認識できません。だから考えも行動も「不十分ではないか?」という指摘から逃れることはできません。ですがそれでも「自分は一人前のひとりの人間だ」と思って、毎日生き、いろんなことを考えるのではないでしょうか。私たちもまだまだ未熟ですが、隣にいる人がどれくらい自分と異なる見方を持っているか、ここに少しでも触れていただけたら幸いです。
インタビュー日:2020年4月12日(私も自分自身にインタビューしてみました。)
回答者:白井亜美(京都大学総合人間学部3回生/エコ~るど京大)
Q:Goal17「パートナーシップで目標を解決しよう」の中で興味のあるテーマは何ですか?
政治、経済、環境問題、途上国貧困、など新聞やラジオで見聞きすることがここに属しているように思えます。毎日の生活の中で時には日本の経済についてどのように動いているのか考えてみたり、アメリカの大統領選挙でアメリカがどう動きうるのか想像してみたり、オリンピックが延期になり何故オリンピックを行いたいのか説明を試みてみたり、常に考えているようなテーマがあるのではなく、日々出会う様々な事柄や状況、周りに広がっている世界についてつらつらと考えています。だから特に「興味のあるテーマ」をあげることは私にはできません。今、今日興味をもっていること、考えていることはわかります。しかし時間的に連続する自分という存在が何か継続したテーマを持っているようなイメージはないですね。
Q:SDGsが2030年までの目標達成を掲げていますが、この「パートナーシップ」は2030年へ向けてどうなっていくものだと想定していますか?
今、まさにパートナーシップとはどうあるべきか、わかりやすく問われているようなきがします。世界的に毒性のやや強いコロナウイルスが蔓延しているなか、大切だと言われていることは「他人との接触を控えること」ではないでしょうか。人との接触をなくすためにパートナーシップまで絶ってしまうのは簡単なやり方です。状況の変化に人間関係を対応させる必要がないからです。「接触を絶て」という明確で強い指示に従っていればよいだけで、面倒くさいことを考える必要がなく、そのように行動する正当な理由まで持つことができてしまいます。しかし、それではもの足りない、と感じてしまうのではないでしょうか。人との接触を絶っても交流は続けたいと思ってしまいます。そうすると変化し続けている状況に対応してどのタイミングで、どんな方法で、どういったことをするか、電話で話す、ズーム飲み会する、手紙を書く、メールする、そうやって複雑な人間関係を紡いでいく必要があるように思います。現在はコロナウイルスというはっきりした危機が迫っているように思いますが、ウイルスが蔓延していなくても日々生きていく中で様々な困難があり、それはウイルスのようには共有され得ないかもしれません。だからパートナーシップを気づいていくことはとても大変で難しいことだと思います。2030年までにパートナーシップで目標を達成するという表現には少し違和感があります。私にとってパートナーシップというのはそれ自体が目標であり、目標を達成することとパスワードを築くことは同値です。SDGsに挙げられているような目標に立ち会うために自らが当事者になり周りの人たちとパートナーシップをもつことが必要です。そして同時にパートナーシップを持つことができれば目標は達成できると思います。目標を達成するというのは、何か特定の指標があることではないと思います。つまり、目標が達成されたと判断するのは当事者たちであり、当事者の間でパートナーシップを作れたらその課題との上手い付き合い方が生まれるはずです。そしてこれがある意味で目標達成なのではないでしょうか。2030年までに達成するか、ではなく今この瞬間から2030年までずっと面倒なパートナーシップを模索する必要があって2030年のその先もずっと辛抱強く向き合い続けなければならないと思います。
Q:「パートナーシップ」に取り組むにあたって主体はどこにあると思いますか?
やはり「自分」ですね。自分が手を差し出せば手を結ぶことができると思います。逆に手を切れば簡単に絶てます。差し出した手が相手に見えることもあるかもしれないですし、時には声が届くこともあるかもしれない、「つぶやき」だってそのイメージですよね。自分がまず動く、その意味で主体は自分です。
Q:最後に、Goal17を一言でいうと何ですか?
「ちょっと心を決めて共感する」
パートナーシップをつなぐことそのものが目標です。そしてそのためには「(別世界を生きている)他人も自分と同じだ」と感じることが必要だと思います。さらにそのためにはその人を知ろうとする努力が必要で、異なる価値観に近づいていくことは難しいことです。だから自分に余裕があるときにちょっとだけ気合いれてその人その行動の気もちを考えてみることが必要なのではないかなと思います。
最後に…
まず、インタビューを受けてくれた素晴らしい友人たち、相談にのり、私にアドバイスを与え、私の長い話にお付き合いしてくれたすべての方々、本当にありがとうございます。そしてここまで読んでくださった読者さま、本当にありがとうございます。自分がこういう機会を持てたことに感謝と嬉しい気持ちでいっぱいです。全体を通してインタビューをしながら感じたことは、自分の本当に近い集団の中の多様性を実感する難しさです。私も、私が今回インタビューした友人たちも、「エコ~るど京大メンバー」として日々ともに様々な活動をしています。その中で協同してイベントを運営したり、一緒にご飯を食べたり、たわいのないおしゃべりをしたり、同時に真剣な議論をしたり、多くの時間と空間と感情を共有しています。だから自分がある程度正しいと思って、少なくとも自分にとってはしっかり向き合えたと思って、考えたことは周りの友人たちも賛成してくれると思ってしまっていました。しかし蓋を開けてみると、何回も一緒にイベントをしてきたSDGsに対する捉え方、環境問題の想定、普段大学生活の中で大切にしているポリシーのようなもの、生き方、持っている哲学…。かなり異なっていました。そんなこと知っていると思われるかもしれません。私も「人間は多様だ」などという言葉はとても当たり前であると思います。ですが同時に全く考えが異なっている部分も自身が想定しているよりはあると思います。
例えば「殺人はよくない」という意見に賛成する人は多いでしょう。細かい哲学的な議論は割愛させていただくのですが、自分が誰かに命を奪われるという想定をすると不当だと思いますし、誰か身近な人を失う悲しみを想像して人一般に応用させることもできるでしょう。一方、「勉強は大切だ」はどうでしょうか。これは賛成かそうではないかを議論する前に「勉強」の定義を捉えなおす必要がありますが、ここでは机に対して行うものと限定するとすると、大学関係者に質問したとしても答え方は様々出ると想像するでしょう。そして同様に、賛成されやすい度合いがどれほどか、という考え自体も人によって様々でしょう。ある人が自明だと思えば、賛成を得やすいと考えている可能性があると思います。しかし他の人にとっては自明ではないかもしれません。こういう風にことばに起こすと大変つまらない、ありきたりな印象になってしまうのが歯がゆいのですが、私はこの多様性の難しさに今更ながらポジティブにショックを受けてしまいました。この衝撃は多くの人も持ちうるのではないかと私は自分の経験から勝手に想像している訳なのです。
このように人によって大切なことが違うと思うと、「何をすべきか」ということが大変曖昧になるのではないでしょうか。人によってすることが違うから「私が」何かしなければいけないという実感はなく、もちろん科学的、客観的な保証も全くありません。であれば、自分は何をもって、伴って生きていくのか、何を正しいとするのか、何を大切にするのか、ある意味で自由に決めてよいと思います。そして同時に(そういう余裕のある時には)身近な他人が全く違う視点を持っている、という事実に大変ワクワクしました。今回のインタビューは私にそんな発見と経験を与えてくれたように思います。