プロフィール
山内潤三様:1952年文学部卒。西北大学(中国)名誉教授。
インタビュー
♦「如何にして生きるのか」それが生命なのだ
※文章によるインタビューでご協力いただきました。
①京大にはどんなイメージをお持ちでしょうか。
京大は、明治30年、「京都帝国大学」として「東大」とは違った深い所「真の自由たるべき大学」として生まれ、125年を経過して来たすぐれた大学です。なぜそう考え得るのか、125年の歴史を熟視して下さい。これからは、更に深く、重要な世界を求め続けるべきでしょう。
②京大に入られた経緯は何でしょうか。
旧制「灘中学」(5年制)を卒業して、伊勢の「神宮皇学館大学専門部」に入学。昭和20年8月終戦。翌21年2月、マッカーサー司令等により廃校。翌昭和21年4月、勉強して「京都帝国大学文学部国語学国文学専攻」に入学しました。すぐれた先生、学者、先輩、友人の方々から多くを学ぶことができました。
③教育・研究者としてどのようなご活躍をされましたか。
出身校「灘高校」での国語教育(アメリカ式)を最初に、滋賀県近江八幡の「近江兄弟社学園」につづいて甲南女子高校・同短大を教えた。更に京大から、高野山大学学生部長を命ぜられ、更に多くの古典・古文・古文書類数百冊を読破・研究し出版した。「平松家本平家」・「春日本平家」他の中世諸本類である。この時代、「大谷女子大学大学院」「武庫川女子大学大学院」「島根大学」「鳥取大学」等各講師もした。
④戦争の時代について教えてください。
「灘中学時代」体を鍛えんが為に入部した「射撃部」で、「38歩兵銃」の練習を重ね、「橿原神宮大会」、今の「全国高校戦」で全国第4位。「明治神宮大会」、今の「国民体育大会」で第3位を獲得した。その結果、昭和18年には一時、一時津連隊に出張して専門の歩兵隊に2週間、歩兵銃の訓練と戦闘術を実地に教える遺法が特別にあった。また昭和20年8月19日、宮崎県の海岸線で、第46部隊の実弾射撃大会が開かれ、私が部隊第1位の栄誉を与えられた。敗戦後5日のこと。後にアメリカ軍から叱責されたとの事。
⑤平和な世界を実現するために大切なことは何でしょう。
「戦争」の名の下に、殺し合う事は、絶対に駄目!!「如何にして生きるのか」それが生命なのだ。
⑥新入生のみなさんに向けてメッセージをお願いします。
専門の道を深く学び、強く悟り、人の為に尽くせ。
(担当)中田、近藤
概要
学生時代に太平洋戦争を経験された山内さんにご自身の人生や経験について教えていただきました。また、平和な世界のために私たちができること、新入生へのメッセージをいただきました。
取材を終えて一言
戦争を実際に体験された方が少なくなる中、貴重なインタビューをさせていただいたと感じました。『「如何にして生きるのか」それが生命なのだ。』というお言葉が印象的でした。
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